美濃尾張キリシタン殉教地(可児市塩)

 美濃・尾張 キリシタン顕彰碑

 歴代の岐阜城主はキリシタン信仰に寛容であり、中には自らキリシタンになった城主もいたため、この美濃地方にはキリシタン信仰が広く受け入れられていました。

 しかし1613年(慶長18)、徳川幕府が禁教令を出してからは、多くのキリシタンが捕縛され処刑されるようになりました。そして1661年(寛文1)、尾張に隣接する可児郡塩村にキリシタン潜伏が発覚しました。この地を領する旗本の林氏は、江戸から尾張藩にキリシタン取締りを依頼しました。

 尾張藩は1631年(寛永8)以来キリシタンを検挙処刑していましたが、これを受けて急遽キリシタン奉行を創設して宗門改めを実施しました。これが「濃尾崩れ」と言われるキリシタンの大量検挙の始まりとなりました。

 こうして塩村、太田村など9ヵ村及び尾張北部の諸村から多数のキリシタンが尾張藩によって捕縛され、1665年(寛文4)、中心人物と見なされた200余名が尾張藩の千本松原で処刑されました。二代藩主徳川光友公は刑場を土器野に移し、千本松原の刑場跡に菩提のために栄国寺を建立しました。寛文年間(1660年代)には、高木村(現・扶桑町高木)、高田村(現・名古屋市瑞穂区瑞穂町)、笠松代官の陣屋等で2000名を超えるキリシタンが処刑されました。

 なお、塩の甘露寺には可児郡坂戸地区で取り調べが行われた時に役人が自然石をくだいて硯代わりに使ったといわれる、可児市指定有形文化財の「硯石」が置かれています。ここに、濃尾崩れで信仰のために命を捧げた殉教者たちを称えてこの碑を建立します。

 2021年6月

        カトリック名古屋教区長 司教 松浦悟郎 建立

                  名誉司教 野村純一 撰文

 

美濃域のキリシタン史跡(中山道みたけ館2F郷土資料展)

 美濃とキリシタン宗との関わりは、永禄3年(1560)に土岐氏の武将小池備後守と山田庄左衛門が洗礼を受け、教理などを美濃に持ち帰ったことに始まるといわれます。これ以後、織田信長の庇護の下、多くの宣教師らが美濃と関わりを持ち、信者が多数誕生しましたが、天正15年(1587)豊臣秀吉により禁教令が発布されると、信者は厳しい弾圧を受けることになりました。

 美濃でも寛永年間より大規模なキリシタン検挙が行われ、多くの信者が処罰されており、可児郡でも寛文年間(1661~72)に最も激しい弾圧が行われました。これによって可児郡内のキリシタン信者は「転びキリシタン」となって改宗したり、「隠れキリシタン」として潜伏することとなりました。

 

<資料>各郡内でのキリシタン信者出村比率(出村数/全村数)

40パーセント以上・・・厚見

30~40パーセント・・可児、各務、羽栗

20~30パーセント・・武儀

10~20パーセント・・加茂、恵那、本巣、大野、安八、不破